Episode.5 脳死心臓移植経験者 Mさんのストーリー

1992年に心臓移植を受けなければ30年前に亡き人でした。


1992年1月に拡張型心筋症を発病し大阪警察病院に入院しました。中学生の時は陸上部に所属し、高校生になっても走るのは好きで走っていました。高校3年生まで元気で病気らしい病気をしたことがなかったのになぜなのと思いました。安静指示を守っていれば治るものだと思っていました。安静は単に心臓に負担をかけていなかっただけでした。


病気の進行が早く半年後には心臓移植を受けなければならないと説明を受けました。両親は早い時期に説明を受けていました。親心だとは解っていましたが、もっと早く教えて欲しかったなと思いました。

死期が迫っていることに絶望し短い人生だったと諦めました。翌日、挿管が必要な状態になり、以降断片的な記憶しかありません。除細動であろう激痛が数回あり、夢か現実か分からいない記憶が少しあり死線をさまよいました。心臓蘇生から数日後に臨床使用が始まって間もない体外式補助人工心臓を装着し意識を取り戻しました。

医師から90分間心臓停止したこと、補助人工心臓を装着して意識を取り戻したのは初めてだと聞かされました。


命は助かりましたが病気を受け入れることが出来ず、どうして自分だけがと毎日泣く日々が続き看護師さんを困らせていました。折しも1992年1月に『臨時脳死及び臓器移植調査会の最終答申』が出され、臓器移植はいつ行われるかという社会状況の中で「心臓移植を待つ少年」として報道で取り上げられました。

この報道がきっかけで同じ病を患う三つ編み女性が病室にお見舞いに来てくださいました。一緒に泣きました。病に苦しんでいるのは自分だけじゃないと思えたことが大きかったと思います。一転、前向きな気持ちになり泣く回数が減りました。


8月のアメリカへ渡航準備のため7月に大阪警察病院から大阪大学附属病院に転院しました。警察病院の先生、看護師さんが寄せ書きをしてくださりました。励みになり、特に印象に残っている言葉を紹介したいと思います。

CCUの看護師長さんが書いてくださったものですが、

Tさん(女性)に言った「後ろはもう振り向きません」と言った言葉を思い出して欲しいと思います。

30年経った今でも約束だと思って振り向かずに生きています。


8月にアメリカへ渡航移植しました。体外式補助人工心臓を装着しての航空機による長距離移動は世界で誰も行ったことがなく、たとえ何が起こるか分からなくても、命の危険を冒してでも、片道となってしまっても心臓移植の受けられる国へ行くことに後悔はありませんでした。10月にテキサス心臓研究所にて心臓移植手術を受けました。


Tさんとは何度か手紙のやり取りがあり私の心臓移植手術成功も喜んでくださり、再会を約束していましたが、Tさんは1992年に亡くなられました。心臓移植を受ける日が来るまで待ち続けると仰っていました。

移植者としてあなたの受けられなかった移植の出来る国になるよう訴えていきたいと決意いたしました。


1993年1月に帰国し、4月から2度目の高校3年生として復学しました。

発病後どうしてこんなに苦しいだろうと思っていた往復10kmの自転車通学は楽に出来、移植医療の素晴らしさを感じました。


10月22日は健康を取り戻した喜ばしい日ではありますが、同時に臓器提供してくださった方の命日でもあるので冥福を祈り、「ありがとう」という思いでその日1日を過ごすことにしています。

#臓器移植について話そうの会

私たちは日本の移植医療の現状をたくさんの方に知ってほしいと移植当事者や関係者でインターネット、SNSを中心に活動しています。