Episode.1 生体間肝臓移植経験者 cosaさんのストーリー

生理痛が重くて貧血気味、あとはひどい花粉症。

それぐらいしか体調に問題のない「わりと健康」そんな体でした。


私の持病が発覚したのは28才の時。

好きな仕事に夢中で、かなりハードに頑張っていた頃でした。通勤片道40分、満員電車に揺られ、かなりの仕事量で帰宅が23時過ぎなんて事も。そんな日々の中、疲れやストレスからか胃が痛い。ということで、近所の消化器系のクリニックを受診したところ胃カメラと血液検査をすることに。「胃はとくに問題ないね」と先生。その後続けて「お酒すごい飲むんだね」と言われました。私はそんなに飲むことが無かったのでビックリしました。

それを伝えると「血液検査の結果で肝機能の数値が悪かったから、すごい飲むのかと思ったよ」と。これで「おかしい」となり、大きな病院へ紹介状を出してもらい調べてもらいました。

そしてわかったのが、大腸には「潰瘍性大腸炎」という病気。もう一つの肝臓にある病気はその時点では2つの病気の可能性があって、「原発性硬化性胆管炎」もしくは「原発性胆汁性胆管炎」のどちらかで、もっと状態が悪くならないと病名が確定できないと言われました。どれも難病でした。こんな感じで持病との付き合いが始まりました。


・難病(特定疾患)とは

治療が難しく、慢性の経過をたどる疾病もいまだ存在し、このような疾病を難病と

呼んでいます。ただし、完治はしないものの、適切な治療や自己管理を続ければ、普通に生活ができる状態になっている疾患が多くなっています。現在 123 種類が「特定疾患」として指定されており、多種多様です。

ー厚生労働省資料より抜粋ー


「難病=完治しない」ネットで調べた肝臓の病気の情報にはよくない経過が書かれていました。自分の思い描いた未来は難しいことを思い、かなり落ち込み自暴自棄になりかけたことも。


この時、肝臓に自覚症状はありませんでした。でも、潰瘍性大腸炎はその病名がわかったあたりからどんどん状態が悪くなっていきました。出かけることもままならない日々になんだか悲しくて悔しくて。泣きながら注腸薬を使った日もありました。酷い時にはトイレにずっと籠ってしまい貧血でフラフラにもなりました。だんだん通勤も厳しくなり、1ヶ月ほど治療の為に仕事を休みました。

幸い私の場合、注腸薬が良く効いたようで入院にはならず3ヶ月ぐらいで寛解(完治は見込めない病気の為、病状が落ち着いたことを言います)になり、仕事復帰することができました。しかし、ハードワークだったのでやむを得ず転職。さらに悪化した時でも仕事がしやすい技術を身につけるため短期で学校に通い、その技術で在宅でも勤務可能な職場に再度転職をしました。

その後しばらく肝臓も落ち着いたまま。

(潰瘍性大腸炎はここからは少しの波はあったものの大きな問題なく今に至ります。)


持病の発覚から約1年後に結婚、4年後に娘を出産しました。

変化が訪れたのは出産してからでした。

はじめての出産~育児で会社や家族、寝不足などと必死で戦いました。そんな様々なストレスと疲れが重なり帯状疱疹に。危険な左側顔面に出てしまった為、入院治療をしました。退院した後も後神経痛が続き、ペインクリニックにしばらく通院。この治療で服用していた薬が肝臓に影響したようで肝機能の血液検査数値が悪くなってしまいました。それでも当時の自覚症状は少し疲れやすくなったぐらいで他にはほぼなく、定期通院と服薬で悪くならないよう抑えながら経過をみていました。しかし、肝機能の数値が改善することはなく、急激に悪い数値になっていきました。

経過観察のために2~3ヶ月に1度血液検査と半年に1度のエコー検査をするようになりましたが、とうとう肝臓の病気の名前が確定するほど悪化してしまいました。


「原発性硬化性胆管炎」という病気でした。


本来まっすぐの胆道が数珠のようにでこぼこしていて。先生からは「この状態まできてしまうと、ここから良くなることはほぼ無く、肝硬変になったりしたら肝臓移植などのはなしにはなるけれど、今はできることがないから服薬で悪くならないように過ごすしかない」といわれました。

ちなみに、この病気の合併症で潰瘍性大腸炎など大腸の疾患をもっている人は多いそうです。この頃、血液検査で血小板などの数値にも異常が大きくでるようになり、肝臓の持病や薬の影響による「本態性血小板血症」もわかりました。血が固まりやすくなって、出血しやすくなる血液の病気でした。

その少し後の定期検査エコー結果。主治医の先生から「困ったことになってる。この土日はあなたの病気の事で色々調べごとやら、相談やらでバタバタしたよ。というのもね」と。見せてもらった肝臓の画像の中には「乳頭状腫瘍」という小さなキノコみたいなものが何個もありました。

「【原発性硬化性胆管炎】と、この【胆管内乳頭状腫瘍】が一緒にあることで治療も難しくなり、普通の腫瘍なら1箇所切除して対応できるものが、あちこちにあるのでそうなると肝臓移植しかないかもしれない。でも、調べても情報が出てこないぐらい珍しい症例なので移植を適用できるかどうかも今の段階ではわからない」と言われました。


後日、家族への病状説明がされました。

その内容は


潰瘍性大腸炎の他に「原発性硬化性胆管炎」による数珠状拡張と「胆管内乳頭状腫瘍」による粘液瘤による肝臓の拡張+腫瘍がある状態

・原発性硬化性胆管炎だけで肝硬変、胆管癌の高リスク

・胆管内乳頭状腫瘍でさらに肝臓と胆管に負担がかかり、より肝硬変と胆管癌のリスクが高くなる(この病態自体、前癌病態と言われている)

・数珠状の狭窄(凸凹)、粘液栓

胆汁の流れを邪魔する

胆管炎をくりかえす

肝不全


【今後予測されるトラブルと考えられる対処法】

・胆管炎→胆管の閉塞部を広げる胆道ドレナージ

しかし狭窄部多発のためすぐ再燃、頻繁の入院から肝不全へ?

・胆管癌→肝切除

しかし、あちこちに問題部位があるため、部分切除ではダメ?

・肝硬変(肝不全)→肝臓移植

しかし、胆管内乳頭状腫瘍のみでは移植適応✕、また、胆管癌がある場合も移植不可。原発性硬化性胆管炎は移植後高確率に再発する


との説明でした。


その頃から、背中に違和感がではじめ、急に右胸部下の痛みが強くなり、痛くて動けなくなったり、眠れない日も。検査の結果、肥大した肝臓が内側から体の中を圧迫する痛みの可能性が高いと。徐々に痛みが増し、普通の痛み止めを限界量飲んでも効かなくなり、医療用麻薬を使うことになりました。

以前は娘と公園遊びや電車でのお出かけなどたくさん一緒に楽しい時間を過ごせていたのに家事をするだけで精一杯、家で静かにできる遊びをするぐらい、お昼寝も必要な生活になりました。血液検査の数値でいうと常にフルマラソンをした後の状態。普通に生活できているのが信じられないと言われました。


さらに目頭の肌が黄色くただれたようになったり、指の関節部分に肌色のかたまりができ、物を持つと痛い「皮膚黄色種」ができ、血液検査では低血糖も頻繁に出るようになりました。これらは「脂質異常症」による高コレステロールと低血糖でした。

鼻血が出始めたら1時間近く止まらない。胸周辺のどこかがいつも痛く、常にとても眠い。黄疸と皮膚のかゆみがひどくなり我慢できずにかいてしまって皮膚がガサガサに荒れてしまったり。日によっては貧血や低血糖のせいかフラフラ、ちかちか、クラっとしたり。この頃には家事もきつくなり親族からの生活援助が必要になりました。仕事も長期の休みを取ることに。


そして先生からいつ必要になるかわからないからそろそろ準備をと「肝臓移植」の話しがでました。移植手術ができる大きな病院へはなしを聞きに行くように言われました。

その時に知ったのは移植をめぐる日本の厳しい現実でした。


私の場合、妹弟がいて弟が生体移植の肝臓提供者“ドナー”になってくれた為、命が救われたのですが、まず生体間で移植をする際には「ドナーに100%リスクがないとは言えない」と先生から言われました。生体からの移植は健康な体の人の体に傷をつけて、臓器を分けてもらうことになります。成功率は高いとは言われていても心配にならないわけがありません。

家族に大変なリスクを負わせることが嫌で「生体移植はやめたい」と先生に話したところ「日本は海外と違って圧倒的にドナーが少ない。待ってる間に命を落とす可能性が高いよ」と言われました。

移植は命に関わる状況になった患者が優先され「悪くなる前に」での移植はできません。そして、「明日やりましょう」でできるものでは無いため、本当に必要なタイミングでドナーが現れるとも限らず、移植前に亡くなってしまう方が多いと知りました。

独り身だったら移植せずに一生を終える選択もわたしはできたかもしれない。けど、ママが大好きな保育園年長の娘を思うと一緒に生きてそばにいてあげたい。成長する姿を見ていたい。でも・・・とすごく悩みました。


しばらくして、大量の痛み止めを使用しているにも関わらずひどい痛みがあり受診したところ、緊急入院に。そのまま転院をして移植の準備をすることになりました。

万が一、家族がドナーになれない場合のために脳死移植も検討したいと相談しましたが、待機期間は3年以上になるから間に合わないと言われました。

後から聞いたのがこの時すでに余命1年でした。


弟以外に妹も提供を申し出てくれていたのですが、体調を崩すことが多く子供が2人いるため「ドナーになれない。ごめん」と泣きながら連絡をもらいました。「自分さえこんな病気にならなければ・・・」と何度も家族のみんなに心から悲しく、申し訳なく思いました。

弟には「嫌になったらいつでも断って」と言っていましたが、それでも弟の意思は変わらなかったので、助けてもらうことにしました。

でも、ドナーが決まったら「すぐに移植手術!」とは行きませんでした。

私と弟の体の状態を隅々まで検査。適合サイズなどは問題ないようでしたが、弟の肝臓に脂肪肝が見つかりました。改善されるまで準備はストップに。

弟に頑張ってもらわないと移植手術を希望の時期にはできなくなる。そうなると移植が必要な時に間に合わなかったり、体力のあるうちに手術できないリスクや、家族へ迷惑をかけている状況も長引いてしまう。でも「私の為に頑張って」とも言えない。複雑な気持ちになりました。

しかし、弟は食事制限などをすごく頑張ってくれたようで奇跡的なスピードでダイエットに成功。脂肪肝を改善してくれました。そして、移植手術に向けた準備が再開しました。


本格的に準備が進むにつれて、母の様子が以前に比べ少しおかしいように感じました。ボーっとすることが増えたり、物忘れがあったり。ドナーの弟と私の二人分の体の心配と娘の生活フォロー。心身ともにかなりきつかったと思います。


準備を終え、あとは「予定日に入院して移植手術」となると思っていましたが、その日は延期になりました。医療ソースが限られているため、コロナの影響や前の患者さんの術後の経過などで影響があったようでした。移植が間に合うのか、会社への復職への影響など色んな不安が押し寄せました。


そして予定日から2か月後、無事に移植手術を受けることができました。


移植直後の闘病は大変なこともありましたが、それから1年以上が経つ今、免疫抑制剤の常用と内部障がい者となり多少の体の不調はありますが、普通に近い生活を送ることができています。

手術前に黄色かった肌も白くなり、痛み止めも一切飲まずに過ごせるようになりました。


娘は私の入院中、不安な時間を過ごし突然号泣することがあったと聞きました。卒業できていた爪噛みが再開したり。今では私も学校行事に参加できるようになり、公園などで一緒に遊んだりとたくさんの思い出を作ることができています。

「ママはいしょくしたから生きてるんだよね?」と言ってきたこともありました。


あの時、もし弟から臓器提供が受けられていなかったら私は今生きていません。


ドナーになってくれた弟はリスクを承知で生体移植ドナーを引き受けてくれたうえに、術前から今まで一度も私に対して愚痴や負い目を感じさせるようなことを言ってきたことがありません。そのおかげで今も以前と変わらない付き合いをできています。弟のやさしさに甘えさせてもらって生きています。


ドナーになってくれた弟や、サポートしてくれた家族。応援してくださった方々、医療従事者のみなさん、そして移植手術を受けられたことに本当に心から感謝しています。


そして移植医療はすごい治療法です。移植が必要な方たちが移植手術を選択できるような社会になることを願います。


cosaさんブログ 

#臓器移植について話そうの会

私たちは日本の移植医療の現状をたくさんの方に知ってほしいと移植当事者や関係者でインターネット、SNSを中心に活動しています。