私の病気は胆道閉鎖症です。
病気発覚のきっかけは「新生児黄疸(※1)」かもと様子を見ていましたが黄疸が消失せず、便の色も白かったことが散見され、助産師さんが同じ病気の子を取り上げた経験から「もしかしたら…」と保育器のまま東北大学病院に転院し採血・胆道シンチ(※2)などの検査をしてわかり、病名が確定しました。
生後3ヵ月までの間に「葛西手術(※3)」を行い、その後3歳まで入院
術後腸閉塞による長期間の絶飲食
食道静脈瘤を発症
この時、泣き叫ぶ私を抱きながら母は一度だけ心中を考え、私を抱いたまま点滴を押して屋上に向かったところ隣のベットのおばあちゃんに「こんな大きい声で泣いてるんだから大丈夫よ」と言われ、はっと我に帰り思いとどまったそうです。
進行はゆっくりでしたが、確実に病状は進行していきました。
11歳で余命宣告2年でした。
移植しないと高校生にはなれないと告げられ、家族会議。すぐに母がドナーにと「私の肝臓使って下さい」と医師に言ってくれてそこから病院探しでしたが、26年以上前は今より移植が知られていなく病院も少なくて。
生まれた時から診てくれてる先生が「京大病院なら件数も多く色々なケースを診てるから様々な対応もしてくれる」とのことで、京大のコーディネーターさんに繋いでもらって移植待機となりました。
その時点で言われた移植待機期間は2年でした。
ビリルビンの値(※4)も移植前に最終的には30近くなり、末期肝硬変だったのでひどい黄疸とどす黒い顔色で男女もわからない程でした。
そして余命宣告されたギリギリ数ヶ月前に京大病院から連絡があり、移植を受けました。
私の肝臓は申し訳なさそうに居ただけでほとんど機能しておらず、あと数ヶ月ずれたら生きていなかったと移植後に言われました。
ICUで目が覚めて朦朧とするなか家族皆が来て、母は車椅子で痛そうに面会に来てくれました。私は「ごめんね…ありがとう」と何とか伝えると「頑張ったね」と声をかけてくれて、兄は「本当によく頑張ったな」と声をかけてくれて涙が出ました。
しばらくして個室に移動してからが痛みとたくさんの点滴や管、リハビリとの闘いでした。
でも、どうしても大好きなアーティストに会いたかった私はその一心と寝たきりにはなりたくないという気持ちで必死にリハビリを頑張りました。
術後は比較的経過も順調で退院できましたが、退院後の外来で感染症になり入院。
これまでも日和見感染症・B型肝炎・肝内結石症・高アンモニア血症からの肝性脳症拒絶反応からの慢性拒絶反応進行中と胆管炎を繰り返していて、現在も慢性的な肝臓からの痒み・不安定な病状に悩みながらも入院したりしながら、母を始め家族のサポートや先生・看護師さん・コーディネーターさん・体調を理解して一緒に居てくれるお友達に支えられ、時に大好きなアーティストたちに会いに行けたり、旅行できたりしながら、働き、一人暮らしをできるようになりました。
以前は介護士もしていました。体調面で難しくなりもうできないですが、介護福祉士の資格だけは取りました。
入院したり働けない時は母のサポートを受けながらですが、仕事では体調の変化への理解がなく移植がまだまだ認知されてないと感じながらも障害者雇用で何とか踏ん張って働き12年目となりました。
私の移植から26年経過していてもなかなか変わらない移植医療の厳しさや社会生活の中での風当たりの強さ、時に辛辣な言葉を言われたりとまだまだ移植者が生きにくい社会だと思うので、何とか移植者の仲間の力を借りながら少しずつでも状況を変えていきたいと思っています。
※1 黄疸・・・目に見える皮膚の黄染の意味
※2 胆道シンチ・・・ 肝臓からの胆汁の排泄の状態をみる検査の一法
※3 葛西手術・・・閉塞して瘢痕となった胆管組織を切除し、切除した部分に小腸の一部をあてがうという方法の手術
※4 ビリルビン・・・主に赤血球中のヘモグロビン(血色素)が体内で分解された物質。増加することで黄疸の症状に
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